夏川→ギリコナイト、
終わってみれば結構なお客様に来ていただきました!!
ドルチェ以前からのファンの方もだけど、
ドルチェで出会った方々も何人も来てくれて・・・
うれしいなあ。。。
みんな、ありがとうございますm(_ _)m 
 
名前を変えるということは、
小さいことのようで意外と気合の要ること。
活動の方向性や意味合いが変わるというだけではない何かがある気がします。
 
名は体を表すと言います。
名前が変わるということは、その本体も別物になるということ。
私は、「セシル=ギリコ」→「夏川あき」→「瀬知素子」と変わってきました。そしてまた、「ギリコ」も復活の兆しです。
 
「夏川あき」のファンを「瀬知素子」や「ギリコ」が引き継げるのか。満足させられるのか。
「瀬知素子」のファンは、「夏川あき」をどう見るのか。引きずっていると取られるか、夏川あきを経たからこそと思ってもらえるのか。
 
そして、「瀬知素子」で行くと決めた私が、「ギリコ」の部分を作るということの意味と意義は。。。
 
 
以下は、ふだんあまり書かない自分の内面のいろいろです。うんこです。
便秘が続いてすんごく長くなっちゃいましたので、暇ツブシをお探しの方はどうぞ。。。
 
 
◆いろいろ飛びつく2つの理由
私はおそらく、端から見たら、かなり無鉄砲に八方美人に、いろんなジャンルに手を出している欲張りさんに見えると思います。
その理由は、ざっくり2つあります。
 
ひとつは、私にとって、イベントもデザインも歌もショウも司会も、ひとつの同じことだから。
自分でも不思議ではありますが、きっと「なんのためにやっているか」が一緒なのです。
 
「八戸をこういう街にしたい」というビジョンがあって、そのために、私にできることはなんでもやりたいのです。
で、やってみた結果、私以上にできる人がいたらその方にお任せして、まだ私しかやってないこととか、他の人にやれないジャンルがあったら、続けてみる。そして、それを見た人がひとりでも、面白い!とか、これやってみたい!と思えたら…、と考えているんですね。
 
しかし未熟さゆえ、手を出しすぎてあっぷあっぷになることが多く、みなさまにはご迷惑をかけ通しですが・・・。
 
そしてふたつ目。
東京のアングライベント界では、「じゃあ来年考えよう」という感覚はほぼありません。その演者が来年も東京にいて演者をやってる保証はどこにもない。演者も、主催から声がかかる保証はない。
私はそんな世界しか知らないため、思いつくと「いましかない!」と飛びついてしまうのですね・・・。
 
 
これらの理由で現在は常にタコ足配線になってる私ですが、「地元に根をおろす、ということは、長い目で考えることができるんだ」ということがだんだん分かってきたところですので、もう少し見守っていてください(汗)
 
 
◆八戸で初めてオトナの階段を昇ったワタクシ
八戸に来るまで、私は「頼まれたことを精一杯こなす人材」でした。博士に命令されて命令以上のことをしちゃうフランケンのようなものです。いろんな方に、便利に使ってもらい、私も知らなかった私の才能や能力を目覚めさせていただきました。それはもう指示した方が驚くくらいに(笑)
 
踊り、演技、火吹き、コント、男役、チラシ作り、音源編集・・・。どれもこれも、誰かに「やってみてよ」と言われて挑戦したものばかりです。
 
そして、八戸に来て初めて、「自分で何かをする」ことを始めました。私の「自分発 第一号」は、「八戸マノンde演芸ショウ!!」です。
座長的なことは何一つ経験がなかったため、(そして東京では、ろくな打合せも資料もなく勢いだけでみんなバーッとやっちゃうイベントが多かったものですから)いろんな方に気苦労やご心配をおかけしてしまいました。
 
それから何度かイベントを経験し、暗中模索でやってきましたが、今年に入り、少し、「時にはスタッフとして、時にはリーダーとして、みんなと協力して物事を進める」ときの感覚が分かり始めてきたように思います。
 
それはそのまま、「八戸の人」として受け入れてもらえ始めたのかなという感覚とイコールに感じます。

去年までは、自分にも相手にも、少しお客さん的な感じがあったと、いまになって思えるのです。
私が、どこまで入り込んでいいのか分からなかったため、みんなもどこまで受け入れていいか分からない、そんな感じだったのではないかと思います。

今年に入り、地面に落ちていただけのモトコ種から、少し、根が八戸の地中に伸びたのかな、そう感じるのです。
 
 
◆ギリコへの回帰
そうなった時に、「瀬知素子」の中のアングラ的な部分を「ギリコ」として表現していこうと思い立ったというのは、逆にいまの私の「きちんと”瀬知素子”に成りたい」という思いの表れなのではないかと思います。
 
いままでアンダーグラウンド側のみに居た「夏川あき」が「瀬知素子」になったとき、私の世界はオーバーグラウンドに広がりました。その「瀬知素子」で、両方の世界を網羅したいと思いました。
 
が、なんとなく、そんな瀬知素子は嘘くさいんじゃないか?と感じ始めたのです。その瀬知素子は、芸名なんじゃない?「夏川あき」を修正液で消して、瀬知素子と書き換えただけじゃん?と。
 
「瀬知素子」はあくまでも本名、本質という形でありたいと思っています。なのにいまは、芸名としての瀬知素子の中に、本名の瀬知素子が存在している感じ。キャラクターに本質が引きずられている。そんな感覚があるのです。
 
ならば・・・私の裏面、地下面を表現するキャラクターを作れば?そのキャラがあることで、本名の瀬知素子と芸名の瀬知素子は統合できるのではないか?というところで、以前の芸名「ギリコ」を思い出しました。
思えば「ギリコ」は、本名としての瀬知素子が、歌を歌うにあたって思いついた芸名。「いろいろとギリギリだから」という由来もますますちょうどいいw
 
  
◆私は誰?私はわたし?
誰でもざっくり分けて裏表、両面持っています。
瀬知素子ももちろん、両面合わせて瀬知素子なはずです。
 
しかし私はいままで、本質(本名)の瀬知素子のアイデンティティを育てずに来てしまった。正直、私がどういう人間か、私が一番わかっていませんw
 
そこで、ここで一旦、瀬知素子の中に社会的な面と歪(ひず)みの面、両方を立てることで、瀬知素子のアイデンティティを確立できるんじゃないか、という中二病的目論見を立ててしまったのです。要は本名では恥ずかしくて書けないようなポエムをペンネームで書くようなことですwww
こんなのみんな、きっと10代〜20代前半で終わらせることですが(笑)
 
あのまま東京にいれば、「瀬知素子とは?」の答えは「東京のアンダーグラウンドで夏川あきというキャラクターで様々なステージをする、東北出身のひと」だったでしょう。
「夏川あきをやってるひと」が、「瀬知素子」の説明であり、拠り所。
逆に言えば、「夏川あきって誰?」ってとき、「瀬知素子がやってるキャラクター」という説明はできないのです。
「佐藤君てどれ?」「田中君の隣の人」「田中君てどれ?」「佐藤君の隣の人」よりひどいwwww
 
そして「夏川あき」は「一般的社会性のある瀬知素子」のひずみ部分を表現するキャラではありませんでした。「アングラ的社会性のある瀬知素子」、わたしそのものだったのです。
わたしは、ある意味ひずみそのものであったが故に、ひずみを表現する術を持たなかったともいえるでしょう。
 
 
◆社会は社会で出来ている
東京では、アンダーグラウンドのみでひとつの社会であり、そこでのしきたり、礼儀作法、常識があります。演者側の人は、やろうと思えばその社会のみで死ぬまで生きていくことが可能です。ある意味、その社会でしか生きられないから、東京に出てきた人の集まりですからね(笑)
そして東京には、そういう人を受け入れられる会社や仕事もいっぱいある。才能ある人々は、様々な作品を創造し世に出しています。
ずっとその中で生きていくなら、瀬知素子は「夏川あきの中の人」でもよかったのです。
 
しかし私は無謀にも八戸に帰ってきてしまった(笑)
そして八戸に来て、私は初めていわゆる「一般的な社会」の中に立ったのです。私はおどろきと戸惑いの連続で、そのおかげで、「これは今までの社会とは違う社会だ」と気付いたのです。
 
私は17歳という年齢で、一般の社会を知らずにアングラ社会に入ってしまい、以来17年。一般的会社員の友人も多く、接客業も長く、情報へアンテナを張り、企画会社でデザイナーとしてバイトしたこともあり・・・、一般的社会を知っていると思い込んでいました。
むしろアンダーグラウンド側に立っている私から見える景色が、社会全体だと思っていたのです。
 
一般的なみなさんが、本や映像、体験談などでアンダーグラウンドを知るように、私も、テレビや映画、本や飲み屋での愚痴などでしか、一般社会を知らなかったのです。
その社会の一員にならないとわからないことって、たくさんありますねえ(笑)
 
そして今、大人になって地元を見たとき、「八戸、超面白い!」と感じて八戸に戻りましたが、そのおかげで最近やっと、「17歳だった私は一般的な社会についていけなくて東京に出たのだ」ということに気付いたのです!
だってこないだまで私は、私がいるのが今も昔も一般的社会と信じて疑わなかったのですから(笑)
 
【※1】ここでの「アンダーグラウンド」とは、私が今まで棲息してきたディープでキッチュな社会のことであり、俗に言う「アングラ芝居」などの固有名詞的な「アングラ」を指すものではありません。そして、一般社会的でないこと全てを指しているわけでもありません。
【※2】ここでの「一般的社会」とは、「健全な資本主義社会」とでもいうのかな・・・。商業ベース、企業間のビジネスと製造と流通で成り立つ、価値増加型社会のこと。で伝わるかな(; ^ω^)まだよくわかってない・・・。
 
 
◆社会と社会を足して仕合わせ
しかし、この一般的社会体験が、私「瀬知素子」に欠損していた部分を埋めることになるのではないか、と感じています。
一般的社会の中で、自分のひずみが自覚されたとき、私は自分のひずみを表現する術を持つのでしょう。歌なのか、踊りなのか、文章なのか、芝居なのか・・・。(その頃には、ギリコの名は用済みかもしれませんね)
 
そして、私の目指すところは、「ギリコ」のキャラがなくても、本質としての「瀬知素子」でひずみを内包し、無理なく、東京も八戸もオーバーグラウンドもアンダーグラウンドもひとつに考え、行動できる人間になれたらいいなあ、というところです。
 
私のようなどっちつかずの人間は、開き直ってどっちつかずを追求したらいいんじゃないかとw
何か一つを追求しようとしても、頭の中ですぐ他のものと結びついてしまうので、いっそ、その塊を大きくなるままに放っておこう、なんて思っています。
 
もちろん生活していく以上、ちゃんと地に足つける部分がないといけませんが、一般的社会を勉強し、理解し、そこに私の持つ別の社会性も足してちょっと広くしてw、私なりの地に足がつけられたらいいなと。
 
 
そして。。。
田舎の一般社会に居場所がないと感じ、親に否定されたと感じ、先生は解ってくれないと感じ、グレたり引きこもったり東京に出てしまう奇才天才バカボン達が、その私が広げたちょびっとの地に足をつくことができ、小さな社会が形成されることで地元に残れ、さらには、ちょっとはみ出た社会が存在することで、もともと地元に根付いている人たちの中の裏面・地下面をもっと発散できるような街にできたらなあ。。。そう、思っているのです。


◆さいごに
とりとめもない私事文を最後まで読んでくださった方、ありがとうございます<(_ _)>
自分の整理のために書いたようなものですが、未熟な私を見守っててくれという言い訳めいた部分もあります。。。
いろんな流れにうまく乗れないことも多々あるとは思いますが、わざとじゃないので、そういうときは教えて下さいね。
ピンと来たら、あとは早いと思うので。。。(ー▽ー;)